認知症が(あまり)こわくなくなった、というお話

shinoです。

認知症というものが怖いです。
どうしてそうなるのか?わからなくてこわいし、
自分の両親がそうなってしまったらと想像するのもこわい。
苦労している人の助けになれないのもつらい。
どこか遠くへ行ってしまったり。

でも、今はあまり怖くなくなりました。

先日迷子のおじいさんを救助したからです。

朝友人と車で出かける途中、見かけたおじいさん。
道の端でひざをかかえて、動かない姿勢。部屋着のような服。
そして裸足。
「ああこれはもう絶対アカンやつや!」とブレーキ。

友人と、なるべくおどかさないようにそっと声をかけ、
近所の方にも協力していただいて、保護しました。
警察に連絡したら家族から届けが出ていて、
小一時間あとにはパトカーがやってきて、無事帰っていかれました。
分からなくなってしまってる部分はあれど、
インテリジェンスを感じる、柔らかい雰囲気のおじいさんで、
最後は近所の方とお子さんとみんなで手を振って見送りました。
誰かの乗ったパトカーをこんな笑顔で見送ることって、
普通は絶対ないなと思ったらおかしかった。

なんていうのかな。

けっこう、みんなポンコツで生きているんですよね。
大人になってみてだいぶわかって来たのですが。
心技体ともに絶好調!という人はあまり多くなくて、
疲れや痛みを、心や体に隠し持っている人のほうが多いのかもしれない、と思うのです。
一見、美しい人も元気な人も、押し出しのいい人もお金を持った人も。

父が治療中なのもあると思います。
認知症の家族がいるのも大きい。
近所に年配の方が多い事も一因です。
元気な家族も、毎日頑張って奮闘して、疲労をかかえていて。
私もときどき腰が痛かったりしますしねえ。

それでわかったんですが。

みんなどこかしら「ポンコツ」で生きている社会で、
私は、どこかの誰かの家族を助けることができた。
周りのみんなと協力して、普通のことをしただけで、何も大変じゃなかった。

だから、もしいつか私の家族が迷子になっても、きっと誰かが助けてくれる。
みんな少しずつポンコツの社会で、出来る「当たり前」を使ってフォローしあって生きてる。

そんなことを信じられる気分になって。
そしたら怖くなくなりました。

あの日、ほぼ初対面の近所の人も子供たちもおまわりさんも
みんなすごくあたたかかった。
友人は自分のペットボトルを渡して飲ませてあげていた。
迷惑そうな顔一つせず、親切で、当たり前のこととして動いてた。

ニュースには載らないだけで、やっぱりそんな人が世間には多いと思う。
私はそうありたいし、そういう世界にしたい。
私が世界の人の心を刷新する、とかいう大それた意味じゃなくて、
ただ自分が「そういう世界だと感じる心」でありたい。

だって、そういう心構えじゃないと、そういう人たちに失礼だから。
そういう心でいたら、そういう人達にいつ出会っても
「当たり前」を共有できるから。

思えば電車内で、街角で、
そういう人達にたくさん出会ってきたなあ。

あのとき、車を止めるといった時に
友人に「ほっときなよ」って言われなかったこと。
「当たり前」だけど、本当にうれしかったです。
瞬発力はあるわりに、ささいなことで私はすぐストップする。

そのあと友人と神社に行ってご祈祷を受けて、
お昼にギョーザを山ほど食べて帰って爆昼寝しました。
後で話してわかったことですが、ご祈祷の間、
二人ともついおじいさんの幸せを祈っちゃっていた。
笑いました。

「情けは人の為ならず」。

誰かの助けになることをすると、巡り巡って
自分のところへ良いことが返ってくるから、
他人を助けることは自分のためにもなるのだ、と昔の人は言いましたが、
この日の私には、
巡り巡らず一瞬で帰ってきたように思われました。



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Author:erisino57
shinoです。農業しながらアクセサリーを作っています。不定期ですがフルオーダーメイドも。

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